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凍頂烏龍茶(dòng dǐng wū lóng chá)

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伝説の茶樹、最後の1本
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伝説の茶樹、茶花
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凍頂山茶葉
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陸羽像

凍頂烏龍茶の成り立ち

茶業改良場資料によると、1929年谷村愛之助氏および井上房邦氏は台湾球状包種茶の形状や品質が安定しないことを認識。1930年4月26日「木柵茶業公司舉辦球形包種製造講習會」において重要な研究成果を発表しました。これを契機に台湾球状茶新製法が発展しました。1939年名間郷に安溪鐵觀音袋法を導入、1941年凍頂地区にも伝わり、1946年木柵に伝わりました。1950年名間郷で袋揉捻球状茶の生産が始まり、1970年には近隣地区でも生産が始まりました。
日本時代が終わり製茶基準として「発酵度50~60%」の包種茶を「烏龍茶」と呼称すると定めました。これは萎凋過程で撹拌過程(前半は軽く、後半に強く)を加えることで「七分紅三分綠」と言われる茶葉を作り出しました。これは「閩南烏龍茶製法」と呼ばれるものです。
生産は鳳凰村、永隆村、彰雅村から始まり、徐々に廣興村、內湖村、和雅村、初鄉村、羊灣村などに広まりました
民國65年(1976年)鹿谷郷農會が第一回凍頂烏龍優良茶競賽を開催、当時は「布球揉捻機」「束包機」などもなく手作業での製茶でした。民國74年まで審査委員長を務めた茶業改良場吳振鐸は伝統的な「重焙火」と呼ばれる火香が強いお茶を好んだため、このようなお茶を作る茶農が多くなり人気になった。
凍頂烏龍茶は條型包種茶製法と鐵觀音茶布巾包法をミックスした製法で、発酵度15~20%の火香がある包種茶である

❊近年では発酵度という概念に疑義が生じている

凍頂烏龍茶(英文:Tongding Oolong tea)

南投縣鹿谷郷凍頂山で生産した火香のある包種茶であったが、徐々に定義範囲が広がり南投縣凍頂山系(杉林渓、龍鳳峡、三層坪、番仔田などの茶区)で採取され凍頂式焙煎したお茶に変わり、現在は台湾産の茶葉で凍頂式焙煎したお茶となった。近年ではベトナムで作られたお茶を台湾で再焙煎した偽装茶が比賽入賞した事例がある。

「凍頂貴妃茶」は1980年ごろは火香のある「凍頂烏龍茶(紅水烏龍)」に対して、有機栽培した「清香系凍頂茶」を意味し販売していた。鹿谷で貴妃茶を購入すると清香系球状茶であった。近年では意味が変わりウンカ食害の蜜香香のあるお茶をさすようになり、購入すると清香ではなく蜜香系のお茶になった。

その特徴から台湾で包種茶は「青春少女」、凍頂烏龍茶「貴夫人」、 鐵觀音茶は「中年男人」、紅烏龍は「俠骨之士」と呼ばれています
凍頂烏龍茶は「北包種、南凍頂」と言われ台湾を代表するお茶のひとつです

豆腐機

近年台湾では茶農老齢化による人出不足が著しく「布球揉捻機」「束包機」(通称包揉機)を使用した伝統的な球状茶製法から、ひとりでも簡単に作れる「壓茶機」(通称豆腐機)を使用したお茶が出回りだしました。このお茶は外観が少し劣るため比賽などでは一等減じられる傾向があります
今までのお茶と比較すると製造単価は少し安くなるが、煎が少しきかないなど今後の改良点がありますが、少子高齢化社会においては研究すべき製茶機です

台湾とは無関係だが、大陸での対応は否定的
2016年10月3日安渓県茶業管理委員会より「包揉機の代わりに壓茶機(豆腐機)で茶葉形成は国家標準「地理標誌産品安溪鉄観音」技術要求違反、、品質が極めて悪いだけでなく、茶のブランドイメージにも影響を与えるとの声明を発表した。

凍頂伝説

西暦1846年、鹿谷郷より林鳳池が科挙に参加しました。当時の林鳳池は貧乏で渡航費用がありませんでしたが、凍頂名家林家の林三顯が資金提供をしました。見事、林鳳池は科挙に合格し故郷に錦を飾りました。
この時、林三顯の恩に報いるため、武夷山より36株の茶樹を持ち帰り、12株を林三顯へ贈りました。凍頂山で栽培された茶樹は気候、土壌があったのか生育が良く定着しました。そのほかの24株は生育に失敗したので、この時に持ち帰った株は林三顯が育てている株のみとなりました。
瞬く間にこの茶樹が凍頂一帯で栽培されるようになり大規模農茶園が各地にできました。現在、当時の茶樹がひと株、そのままの状態で現存しています。

凍頂烏龍茶
茶摘み
凍頂烏龍茶
浪菁
凍頂烏龍茶
袋揉捻
凍頂烏龍茶
焙煎
凍頂烏龍茶
鹿谷郷麒麟潭
凍頂烏龍茶
鹿谷郷麒麟潭
凍頂烏龍茶
鹿谷郷茶畑
凍頂烏龍茶
鹿谷郷茶畑
凍頂烏龍茶
鹿谷郷茶畑
凍頂烏龍茶
鹿谷郷茶畑
凍頂烏龍茶
鹿谷郷茶畑
凍頂烏龍茶
凍頂山夜景

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