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中華民国台湾

中華民國(Republic of China)、通称:臺灣(台湾・Taiwan)
1912年1月1日、孫文を臨時大総統として、清王朝を後継する中国大陸を代表する国家「中華民国臨時政府」が成立。1912年大陸地区で成立したが、国共内戦後中国共産党は大陸地区実効支配、国民党は1950年以降台湾省全域と福建省極一部の島嶼を実効支配し中華民国となった。

議会制民主主義・資本主義体制国家であり、1971年まで国際連合安全保障理事会常任理事国。米国・大陸などの利権がからみ、中華人民共和国が中華民国を国家承認しないように要求し承認された。国連は中華人民共和国に常任理事国が変わり、日本を含めて多くの国が断交した。
日中共同声明により中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と承認して国交を樹立。中華民国政府(台湾)と断交し、日台双方の大使館等が閉鎖、民間の実務関係を維持するために、日台相互非政府組織としての連絡機関(日本:日本台湾交流協会、台湾側:亜東関係協会(2017.5迄)、台湾日本関係協会)を設置、経済・文化交流を対国家としてではなく行われている。

1912年2月12日(明治45年)清朝皇帝「愛新覚羅溥儀」退位、袁世凱が大総統就任。対立した孫文は1919年に中国国民党を創建、1921年革命政府を広州に樹立(国民政府の基)したが1925年逝去。
1924年中国共産党間で第一次国共合作。1927年南京事件勃発により国共合作解消。孫文後継者の蒋介石指揮下、上海・武漢などで中国共産党員掃討運動(上海クーデター)を起こした。南京国民政府(蒋介石)と武漢国民政府(汪兆銘)に分裂するも合流。北方軍閥張作霖が日本軍による爆殺後、張作霖息子張学良が蒋介石と合流。

満洲事変契機に大日本帝国(日本)後援による、愛新覚羅溥儀を執政とした満洲国設立(東北部)。1937年盧溝橋事件を契機に日中戦争勃発。日本軍は国民党反蒋介石派、汪兆銘を首班とし国民政府(汪兆銘政権)樹立。西安事件で第二次国共合作が成立、1941年12月日本と英米などとの間で戦争勃発、英米と友好関係にある中華民国は連合国の主要国として枢軸国と対峙。

1945年9月2日の降伏文書調印により、中華民国は第二次世界大戦勝利が決定。主要戦勝国の1国として国際連合の設立メンバーとなり、GHQからの委託に基づき、1945年10月15日に台湾に進駐した。1945年10月25日台北にて日本側安藤利吉台湾総督・第十方面軍司令官が降伏文書に署名、中華民国は光復式典を行い台湾の実効支配開始。

1943年12月1日カイロ宣言、日本は台湾などを中華民国へ返還すると謳われる。行政権は中華民国に移譲、この時点で国際法上台湾島地域は日本の領土である。台湾光復後の1947年2月28日二・二八事件が発生。
1945年10月米国調停で締結した双十協定は破綻、1946年6月頃から本格化した国共内戦で、米国支援が打ち切り、ソ連支援の中国共産党に対して劣勢、1949年初頭には中華民国の実効支配地域が縮小、同年1月に蒋介石総統は内戦不利の責任をとって辞任。副総統李宗仁が総統(代理)就任、中国共産党と北平和談で最終案の国内和平協定に署名しなかったため、1949年10月1日中国共産党が中華人民共和国を樹立

1949年12月7日総統に復帰した蒋介石率いる中国国民党政府が、首都を中国共産党に実効支配された南京から、臨時首都として台湾島の台北に移転。台湾島地域および金馬地区などのみを実効支配する国家となった。日本は、1951年サンフランシスコ講和条約および1952年日華平和条約において、台湾島地域に対する権原を含める一切の権利を放棄。帰属先は明言されていない。

冷戦下の1971年、中ソ対立の文脈の中で、アメリカ合衆国をはじめとする西側諸国と、ソビエト連邦をはじめとする東側諸国との間で政治的駆け引きが行われた結果、国際連合における「中国代表権」が、中華人民共和国に移され、中華民国は国連とその関連機関から脱退となる。1972年米国リチャード・ニクソン大統領が北京訪問。中華人民共和国を承認する意向を見せると、米国影響下の大多数西側国家が同調。日本はモンゴル人民共和国・中華人民共和国を承認し中華民国と断交。その後1979年米国が最終的に中華人民共和国を「中国の代表権を有する正統政府」として承認した。

日本統治時代

日清戦争後下関条約にて台湾は清王朝より日本に割譲された。1895年(明治28年、光緒21年)4月17日より、第二次世界大戦終結、日本降伏後、中華民国政府によって台湾の管轄権行使が開始される1945年(昭和20年、民国34年)10月25日までの期間。

茶葉改良場

日本統治時代は台湾茶発展の大きな期間でした。1903年「臺灣總督府殖産局附屬製茶試驗場」設置し茶葉産業発展を目指した。機械製茶技術や紅茶製茶技術の導入、四大茶樹「青心烏龍」「青心大冇」「大葉烏龍」「硬枝紅心」を定め栽培推奨し、台湾近代茶業の礎を築いた。1968年に「台湾省茶葉改良場」と改名、現在、本場に加え文山、魚池、台東の三分場、凍頂工作站として設置。1999年7月1日「行政院農業委員會茶業改良場」に改名。栽培管理、品種改良、病害虫対策、生産技術開発、茶葉安全対策など茶葉に関して総括する政府機関となった。
文山分場:1930年茶葉伝習場設立、1968年林口分場として改編、1985年石碇移設
魚池分場:1936年魚池紅茶試験支所設立、1968年魚池分場として改編
台東分場:1983年台東縣鹿野郷に設立
凍頂工作站:1985年南投縣鹿谷郷に設立

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