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文山包種茶(wén shān bāo zhŏng chá)

文山包種茶はこうして生まれ発展した

文山地区の茶栽培は1600年代末、台北平原が開墾され、現在の木柵一帯で茶樹栽培が始まったのがその起源と言われています。この頃は平野部で栽培されるのが主流で、現在のような山間部で茶樹の栽培をすることははありませんでした。
1881年吳福老が安溪縣王義程の作り出した包種茶製法が導入され「種仔」と呼ばれる青心烏龍種の茶葉で作られた包種茶に茉莉花などで香りをつけた薫花茶であった。包種茶の名称由来は4両(150g)単位で紙に包み、4包をさらに1包に包んだという「包装」の音から生まれたとの俗説があります。
1800年代前半には木柵、南港、内湖などで栽培され、年間13万トンの生産量となり、1880年には550万トンと飛躍的な発展を遂げています。この頃には台湾の主力農産品となっています。1900年代に入り交通インフラが整備されるにつれ、徐々に生産地が山間部に移りはじめました。石碇が文山茶の集積地として発展を遂げ、さらに奥地の坪林にも茶畑が多く見られるようになりました。文山包種茶の「文山」は地区名で現在の新北市文山地区を指しています。
1912年南港・内湖・深坑地区で茉莉花を使わず花香が出せる改良式包種茶製法が採用。「魏靜時」「王水錦」がこの改良式包種茶生産方式を広めました。1922年首辨台湾茶葉品評会(比賽:コンテスト)開催、改良式包種茶の品質が抜きんでていたため生産量が一気に増大、第二次世界大戦終了前の1944年には730万トンの輸出量となりました。
現在、文山茶は新北市(旧台北縣)「新店」「坪林」「石碇」「深坑」「汐止」「平渓」「三峽」、台北市「南港」「木柵」などで生産されています。

文山包種茶

旧製法は青心烏龍種、大葉烏龍種の茶葉を摘採、日光萎凋、室内萎凋(撹拌)、揺菁、殺菁、揉捻、乾燥、製茶の工程を経て生産され、摘採は早朝、最終乾燥は深夜という作業時間でした。茶葉のふちが赤くなり、中心部は緑が残るものが上質とされ、ほぼすべて手摘みで行われていました。多くの茶農には茶摘みを生業とする茶摘みさんが生産時期に寝泊まりできる施設もありました。
民國100年(2011年)より少し前から新製法と言われる製法に切り替える茶農が多くなりました。機械採茶、寒冷紗下萎凋(夕日萎凋)、室内萎凋(撹拌)、殺菁、揉捻、乾燥、製茶と工程が少し変わり、茶葉のふちは赤くならないものが上質とされるようになりました。
市場のニーズが高山茶に傾きだしたため、清香系花香の強いお茶へと転換されました。生産設備も従来の「笳藶」(かれい:竹ざる)から大きな室内式棚萎凋に、茶摘み不足から機械採茶に、高山茶のように紫外線を遮断した製法にと大きく変わりました。茶摘みは午後遅い時間になり、日光萎凋は紫外線の弱い夕日萎凋、室内萎凋は夕方から翌朝にかけての深夜作業に、殺菁以降の作業は昼前から午後にかけて行われるようになりました。大きな茶農は分業制になり、小さな茶農は設備投資ができず廃農または旧製法のお茶を作る、生茶葉を売るなど業態も大きく変わりました。
現在では青心烏龍種、金萱種が主流で坪林地区で大葉烏龍種、武夷種、翠玉種、四季春種などが傍流として栽培されています。近年開発された青心烏龍種の後継品種「台茶20號」や金萱種の後継品種「台茶19號」はまだ市場規模は小さい。
茶液水色は「蜜黃碧綠」、「香、濃、醇、韻、美」の五大特徴がそろった包種茶が最良の茶葉と言われている

軽発酵茶?なのだろうか

台湾茶の分類は「包種茶」名称は「包種茶」
文山包種茶は軽発酵と記されていることが多いが疑義が生じる。異論が多いと思うが茶香好友としての意見を記す。
文山包種茶生産工程をつぶさに考察すると、摘採時の茶温が一番高い。寒冷紗下の萎凋では茶葉の表面温度は低下している。室内萎凋時の茶葉温はさらに低下し、触れるとひんやりしていることがわかる。室内萎凋終了まで茶葉温が上昇することは無い。発酵茶の代表紅茶や東方美人茶の場合、揉捻や撹拌により茶葉温が徐々に上昇し暖かくなっている。茶葉の酵素と酸素が反応して発酵熱が発生しているためである。発酵に伴う発熱が全くないお茶を軽発酵と位置付けるのはいささか乱暴だと思う次第です。室内萎凋時の撹拌の目的は不要な香りを引き出し捨て去ることが目的だと考えると、発酵させるための作業は文山包種茶の工程には存在しない。

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手摘
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手摘(開面採)
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日光萎凋
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室内萎凋
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棚萎凋(笳藶)
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揺菁
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殺菁
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乾燥機(旧手動式)
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機械採茶
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棚式萎凋
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製茶(クリーニング)
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比賽(コンテスト)

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